2007年03月27日

コピー商品は日本発!

すばらしい発明をしても、残念なことにコピー商品が出回るのは世の常。 そして、コピーといえば中国…ではなく、日本企業からもコピーされてしまうこともあるようです。

非常に興味深いコラムとして、ヒット商品の短命化を加速する類似品の出現がありますが、それの一部を以下に引用します。

昨年秋に某大手家電メーカーが発売して話題をさらい大ヒット商品になった「高温スチーム調理器」の場合も、発売して9ヵ月後の今年6月ごろには他の大手家電メーカーから類似品が発売され、早くも激しい価格競争に突入しています。先発メーカーの製品が発売されて、なんと、9ヶ月という短期間のうちに、図面起こし、金型製作、部品調達から量産開始までを行ってしまうのですから驚きです。このスピードは、まさに神業ものです。

いやー、シャープさん、ご愁傷様です。しかし、松下のコピー技術は確かに凄いです。とても、中国では真似できませんね。ああ、怖い怖い。PDP戦略におけるライバルの誹謗中傷などにも、この傾向はしっかりと反映されているようです。

流石の松下さんとて、コピーした商品は自分たちがオリジナルである等とは主張しません。 しかし、世の中にはもっと不思議な?出来事もありまして。

»コピーの先には

2007年03月25日

追放の行く末

どれだけファントムを追放しようと、消えることは無かった。 しかし、逆位相の波動によって、無害化することは可能であった。 言わば、彼らを認めたのだ。

FF8において、人々はハインを追放した。ラグナは、ハインを宇宙へと追放した。 それでも、存在であるハインを、スコールたちは、遠くの遠くへと追いやった。 その結果……なのだろうか。ハインは新たなる螺旋を採ることとなった。 公理を定めとして受け入れなかった結果が、新たなる定めを生じ、新たなる螺旋を生み出したのかもしれない。 余談だが、召喚獣エデンはFF8以外で活躍しただろうか。

KH1のソラは、ハートレスを倒し続けた。闇を追放する事を定められた勇者は、友と島へ帰る事を夢見ながら、ハートレスを倒し続けた。

その結果は何だ。リクは、光の勇者による闇の追放によって、彼のようになってしまったのではないか。 公理を破壊しようとしたからこそ、狭間となったのではないか。

ソラは、定めを守る事こそがノーバディのためのキングダムハーツをうみだすと知った。定めこそが定めを破壊する。

ソラには、ロクサスというノーバディが生まれた。光の勇者から生れ落ちた、狭間の住人。 彼こそが、この問題を解消する手がかりとなるのかもしれない。

KH1ではゼアノートのハートレスが、KH2ではゼムナスが追放された。 追放は、問題を解決するのだろうか。

坂口博信氏は、続編を作る事を快諾しなかったと聞いている。 氏のフィロソフィーは、肉親の悲劇を納得するために生まれたと、私は邪推している。 そうであるなら、悲しみを知るものが悲しみを終わらせたとて、知らぬものが生み出すことを直視することを拒むかもしれない。 これが、続編を作りたがらない要因の一つではないだろうか。

FF10では、犠牲によってシンを消した。しかし、シンが消えた後の世界は、ユウナたちが思い描くものだったのだろうか。 私は、FF10-2は途中までしかプレーしていないので、断定することはできない。 しかし、ファーストインプレッションでは、その後の世界は好ましいものではなかった。

対立するものを受け入れれば、螺旋が続く。対立するものを追放すれば、新たな螺旋が生まれる。 ……星を巡るライフストリーム。生と死の間(はざま)を行きつ戻りつ。その繰り返しこそが命の正体ならば、歴史が繰り返されるのは必然。 ジェノバだかセフィロスだか知らないが何度でも事を起すがいい。我々は命のさだめに従い、その度におまえたちを阻止してみせる

螺旋は、消えない。

2007年03月21日

FF7AC 小説バレット編邦訳P.1-2

FF7ACの小説のバレット編の邦訳です。2ページしか翻訳していませんけど…。訳がいい加減なのは、お約束ということで、指摘していただければ幸いです。

運命の日から数ヶ月ほど経った頃、ティファとクラウドの新居にマリンを預け、彼は贖罪の旅に出た。「 戦う(奪う)だけじゃなくて、何かしてやれるってこと、教えろよな。」同じ罪を背負うティファへ、斯様に言い残した。それが、せめてもの贖いとなると望んで。だが、彼の言葉は何の慰めにもならなければ、贖い方も示さなかった。マリンと過ごす日々は心の安らぎとなったが、償いを日々延ばし続けることには、罪悪感を感じた。目的がなかろうと、発たねばならぬことはわかっていた。心の支えであるマリンとの距離を置き、現実と向き合う。これが、その場しのぎではあるが、はじまりとなった。

半年ほど、世界を旅した。星痕を除けば、ミッドガルの外の世界は、元通りに見えた。違うのは、魔晄を使う人がいない事。魔晄炉すら、稼動していなかった。嘗てのバレットと反神羅の活動の賜物であったが、喪失感があまりにも強く、喜ぶことなどできなかった。戦いと混沌なき世界に、右腕を銃に変えた男の居場所などなかった。

時に、戦いを求めて森を彷徨う事もあったが、熱い戦闘は自己嫌悪を酷くするばかりであった。「俺が殺ってるのは、俺のイラツキじゃねえか。」そして、彼は叫ぶのであった。「うおおおおおおおおおっ!」

ジュノンの人ごみを歩いているとき、それは起こった。右腕の銃に何かが当たったと思い、視線を移すと、額から血を流している子がいた。治療をしようと近寄ると、彼の母と思しき女性が駆け寄ってきた。「お願いです! どうか、息子をお許しください。お願いです、何でもしますから!」母親の視線は、右腕のマシンガンに注がれていた。「こんな平和な世界では、俺なんかモンスターと変わりねぇんだよな。」そう感じた。世界は、変わっているのだ。新しい時代に相応の、贖いを見つけなければならなかった。それが何なのか、バレットはわからなかったが、兎に角、変わらねばならぬ事は変わっていた。

彼は、さかき親方に会いに行った。さかき親方は、バレットの右腕の義手を手術した人だ。最初の案は、端に鉤が付いたシンプルで洒落たものだったが、バレットは不満だった。オヤジは、スコップとなって穴を掘ったり、木杭を埋めたりできるものを提案したが、納得しなかった。オヤジは、大層機嫌の悪く不躾なバレットに「てめえの頭の中には、神羅への復讐しかねえんだよ。どんな義手だろうと、満足しないんだろ。これでも持ってって、二度と来るんじゃねぇ。」

オヤジがバレットに渡したのは、様々な器具を付けられるアダプターだった。義手だろうと、武器だろうと、右腕に装着できる。

「あんたが自分で付けたものには、責任を取れよ。よく、考えるんだな。」

オヤジの忠告にもかかわらず、バレットは深くは考えなかった。結局、戦闘能力の強化に明け暮れるのであった。数年間の間、彼の義手に取り付けられたものは、全て武器であった。

2007年03月19日

パナソニックの恐るべきネガティブキャンペーン

パナソニックAVCネットワークスによると、PDP(プラズマテレビ)はリアプロと比べて、

  • 軽い
  • 低消費電力
  • 高精細
  • 高画質
  • 省スペース

らしいです。では、発言当時にトップシェアであったPDPとMDリアプロを比較してみましょう。

PDPとリアプロの比較
TH−50PX50 KDF-50E1000
出画方式 プラズマ MDリアプロ
発売時期 2005年9月 2005年10月
消費電力(W) 455 195
重量(kg) 47 33

PDP対リアプロの奥行きに関しても、テレビ単体の設置面積なら37.0cm対40.8cm、テレビラックを含めるなら49.3cm対49.2cmとなり、大差はありません。

ライバルに対して嘘の情報を流している日本のパナソニックですが、北米のパナソニックの社長によると、液晶陣営のネガティブキャンペーンが激しいのだそうです。

――今年のInternational CESにおけるプレス向けのプレゼンでは、液晶に対するプラズマの優位性を、基礎からアピールし直すということを強調していました。これが逆に“危機感”を感じさせるのですが、LCDが大型化していく中での危機感があるのではありませんか?

 「これは店舗営業をいちからやり直すという、われわれの意志の表れです。販売店教育を徹底することでシェアを伸ばしたと昨年お話ししましたが、われわれができることは他社もできます。とくに液晶テレビが得意なメーカーのネガティブキャンペーンが凄まじかったのです。この部分をいちからやり直し、プラズマの良さをアピールしていきます」

――具体的にネガティブキャンペーンとは?

 「冗談のような話ですが、液晶は液体だから将来もパネルから漏れ出すことはないけれど、プラズマの中はガスだから抜けてしまう、なんて話をする販売応援が組織的に行われていて驚きました。また、ヘルパーがペンライトを持ってプラズマの保護ガラスにライトを当て、“ほら、プラズマは見にくいでしょう?”とやるんですよ。プラズマは焼き付いてしまうといった、初期の製品にあった弱点を未だに呪文のように唱えている場合もあります」

確かに、PDPの欠点を誇張しているかもしれません。しかし、ペンライトの光を当てられた際に見にくくなってしまうのは、事実でしょう。

直視型LCD(液晶ディスプレー)は、外光に対して強い事が特長の一つです。LCDはバックライトの光を透過させるれば白、消し去れば黒とすることで画像を表示します。外光が進入してきた場合、黒い部分は光を消し去り、白い部分は光を反射します。 しかし、ブラウン管を初めとする多くのディスプレーは、黒の部分であっても外光を反射してしまいます。これにより、明るい場所では見にくいのです。 また、ディスプレーの表面反射も低減しやすい事も特長。 余談ですが、デジタルカメラの液晶ディスプレーなどには、先の特徴を更に強化したハイブリッド型と呼ばれるLCDが搭載されていることが多々あります。液晶ディスプレーだからこそ、太陽の下であっても見えるのです。

この特性は、外光が差し込む明るい部屋での視認性に大きく貢献します。 電気を消した部屋である程度きれいに見えるテレビより、昼間の明るい日差しの下でも見やすいテレビを好むことはおかしなことでしょうか。

PDP陣営であっても、パイオニアの様に根本的な解決策を提示しているメーカーがあります。 パイオニアの場合、ガラスの枚数を減らすことで表面反射を減らしたり、蛍光体を改良することで明るい場所でも黒が黒くなるような技術を発表しています。

パナソニック経営陣の呪文は、エルシノアの王子様に並ぶものですね。ただ、王子様は筋が通った○○ですので、彼らには敵いませんけど:-P

ええと、一応フォローしておきますが、あくまでもパナソニック経営陣のお話ですので、誤解のなきよう。 パナソニックAVCといっても、リアプロ事業ではLIFIという素晴らしいランプを開発しています。ビクターでは、半導体の王者インテルでさえ撤退を余儀なくされたLCOSと呼ばれるライトバルブの量産化に成功しています。ビクターのLCOSは、キヤノンには採用されるも、パナソニックには採用されないという悲しい現実でありますが。

許しと体験者

FFMのハイン将軍は、妻子をファントムに殺された。 だからこそ、ファントムの根絶を心の底から願っていた。

彼は、ファントムを殺そうとした。ゼウス砲を使ったことも、バリアシティのバリアの出力を弱めたことも、彼の心に従ったにすぎない。それ以外の、何でもない。

FF7のルーファウスは、星の危機を真剣に考えていた。 だからこそ、魔晄キャノンを使った。 FF7ACにおいて、カダージュたちの処理はクラウドと協力して行われた。

ハイン将軍の計画も、ルーファウスの計画も、失敗に終わった。 彼らは、異物を武力で排除しようと試みた。

ファントムはアキによって星に還され、カダージュもエアリスによって星に還され、星痕の患者も救われた。

ハイン将軍は、ファントムに侵されていなかったが、ルーファウスは星痕の患者だった。 星痕の患者であったルーファウスは、星痕の患者を滅ぼせば事は終わると考えなかった。 ファントムに侵されていたアキは、彼らが救済されるべきと知った。

もし、星痕の患者を滅ぼしていたなら? 星痕を宿した死者の思念。それはライフストリームとともに星を巡りやがて星を侵食する… 星痕患者の死を集めたものが負のライフストリームであり、セフィロスの糧となった。 星痕の患者を滅ぼすことは、ファントムを滅ぼそうとすることと同義であろう。 身悶える精神エネルギーも、遺恨による負のライフストリームも、大差あるまい。

FF8は、どうだろうか。アルティミシアは、力によって滅ぼされた。ハインは、終わりではなくなってしまうのだろうか。

その、存在が存在し得ない結果こそが、時間の無限ループという奇妙な終わりを、永遠に終わることの無い否劇を齎したのかも知れない。

2007年03月15日

初めであり、終わりであり

FF8のハインは、始めであり、終わりであります。 ですが、I am alive hereと言っています。 これでは、初めであるものの終わりまでは居続けない可能性があるような印象を与えてしまいます。

人の終わりにとどまるエボン=ジュとは違い、初めであり終わりであるはずのハイン。 ところが、エボン=ジュ同様、終わりではないと思われていました。いや、思われています、というべきかもしれません。 共にいるものの、気付かれていないだけですから。

ただ、I am alive here を2重翻訳と解釈すると、話は変わります。つまり、わたしはいる(あるor存在する)を直訳したと考えるということ。それならば、自分の証明と採る事が可能です。つまり、自分はハインであると主張しているということ。

DCFF7でふと思い出したのですが、初めと終わりは対称であり、螺旋形ですね。終わりは回帰を表すのですから、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんけど。FF7・FF8・FF10・FFM(映画版FF)の不思議な相関性も、この文字に掛けられているのかも知れません。 終焉こそが無限ループを生み出すとは、面白い設定にしたものです。FF10の場合には、人、故にいつか終わる夢だった、ということですか。

この話は、また後ほど。色々と種を蒔いているのですが、なかなか実らないものです。クレイマー夫妻も、さぞかし大変だったでしょうね。一番悲惨なのは、腐った庭を耕し続けた結果に消されたノーグかもしれませんけど(笑)。 そういえばノーグって、某映画にもチョイ役ではありますが出演していましたね。

2007年03月04日

魔女の力・G.F.のからくり

魔法の所持数には制限があるものの、1体のモンスターからドローできる魔法の数は無制限。 また、G.F.を除いて、ドローされても、能力が低下することはありません。

G.F.は、自立エネルギー体。G.F.を、自立しているエネルギー操作装置、つまり物質を操作する装置と仮定した場合、疑問を解消し易くなります。

先の仮定から、ドローとは、対象となる物質を活性なエネルギーに変換してしまう行為となります。 この時、物質から変換される活性なエネルギーは非常に大きいため、物質の減少は無視できます。 そのため、ドローされる対象は影響をうけません。しかし、ドローをした本人は、エネルギーを受け取ることとなります。 活性なエネルギーは、保存できる量に限度があります。よって、魔法の所持数は100個という制限が課せられます。

この場合のポイントは、G.F.そのものがエネルギーではなく、エネルギーの形態変換及び保存補助装置と仮定すること。 これにより、魔女の力の説明も可能。魔女が壁をすり抜けられるのは、物質を操作できるからです。

この解釈の元ねたは、かの有名なアインシュタインのエネルギー・質量保存則 E=mc^2 。この式によれば、エネルギーと質量は等価。 原子力発電は、この理論を応用したもの。 質量に光速を2回かけたものがエネルギーとなるため、ほんのわずかな質量の物質であっても、驚異的なエネルギーを秘めていることとなります。

時間や空間は、歪む事も多々あります。 光速は30万km/秒(1秒間に30万Km進むということ)。 世の中では、光速度のみが不変。30万kmとは、1秒間に光が進む距離のこと。言い換えれば、1秒間とは光が30万km進むのに要する時間。よって、1秒 = 30万km 。 これで距離と時間の単位が揃いました。 S.F.的に解釈するなら、空間と時間が同列に扱えている故、空間軸同様に時間軸も移動できるという事。世界は、4次元空間の中の時間次元を一定速度で移動しており、残りの3次元の移動を人間は制御できると表現されるのかもしれません。

また、空間や時間の歪みを換言するなら、空間圧縮と時間圧縮。 そして、時間圧縮と空間圧縮には対称性があります。

先の理論を基にして、莫大なエネルギーがあれば時間軸を移動できると設定したと仮定することは、あまりにも強引なことでしょか。

アルティミシアが魔女の力を幾重にもジャンクションする事を試みたことも、これで説明ができます。 また、スコールたちが未来へ進む際に体験した不思議な空間も然り。

ただし、この仮説ではG.F.の意思をはじめとするハードプロブレムは解消できていませんし、魔女の力の無限ループの説明にもなっていません。 魔女の力の無限ループに関しては、スコールの息、落とした髪の毛、などの未来から持ち込まれたあらゆる物が無限に増殖してしまうので、考える意味は少ないのかもしれません。 何せ、これはS.F.なのです。もし、矛盾が出ないサイエンスフィクションであるなら、それはサイエンスですから。

エネルギーで時間軸を移動するのであれば、真の時間軸を設定し、その世界でパラレルワールドが時間次元にそって移動していることになるので、おかしいですって? えーと、そんなこと突っ込まないで下さい。あっ、そうそう、G.F.の意思に関しては、FF7とセットで考えるとわかり易かったりするのですが、それに関してはまたの機会にでも。

2007年03月02日

ハインとアルティミシア そのメッセージの解釈

古来より我々魔女は、幻想の中に生きてきた。 我々? 我々の解釈の一例として、次のものを挙げます。

  • 生前のアルティミシアの意識は、ハインの意識とは異なる。
  • 他にも、魔女となった神々がいた。

他の神々に関する記述はFF8中にないので、アルティミシアの意識≠ハインの意識 ということでしょうか。

また、引用元前後の文章も面白いものでして。

……臭い。……薄汚れた愚か者ども。古来より我々魔女は、幻想の中に生きてきた。 おまえたちが生み出した、愚かな幻想だ。恐ろしげな衣装を身にまとい、残酷な儀式で善良な人間を呪い殺す魔女。 無慈悲な魔法で緑の野を焼き払い、暖かい故郷を凍てつかせる恐ろしい魔女。……くだらない。

(中略)

その幻想の中の恐ろしい魔女がガルバディアの味方になると知り、おまえたちは安堵の吐息か? 幻想に幻想を重ねて夢を見ているのは誰だ?

(中略)

現実は優しくない。現実はまったく優しくない。ならば、愚か者、おまえたち! こうするしかない。 みずからの幻想に逃げ込め! 私はその幻想の世界で、おまえたちのために舞い続けよう! 私は恐怖をもたらす魔女として、未来永劫舞い続けよう! おまえたちと私。 ともに創り出す究極のファンタジー。その中では生も死も甘美な夢。魔女は幻想とともに永遠に!

ハインは人間によって追われ、人間の幻想の世界に閉じ込められた事を思い出すと、随分とわかりやすくなるんですね。

魔女イデアのガルバディアへの協力宣言の換言

……薄汚れた愚か者ども。古来より我々魔女は、幻想の中に生きてきた。 おまえたちが生み出した、愚かな幻想だ。

……神によって創られた物ども。古来より我々は、お前たちによって想像上の者とされてしまった。 お前たちが生み出した、くだらぬ想像だ。

幻想に幻想を重ねて夢を見ているのは誰だ?

お前たちが幻想としてきた魔女に時間圧縮の世界へ送られるのはお前たちだ。

みずからの幻想に逃げ込め! 私はその幻想の世界で、おまえたちのために舞い続けよう! 私は恐怖をもたらす魔女として、未来永劫舞い続けよう! おまえたちと私。ともに創り出す究極のファンタジー。

人間が想像の世界の者とした魔女の世界へ行ってしまえ!  私はその時間圧縮の世界で、お前たちが崇拝すべき存在となろう!  私は恐怖をもたらす神として、未来永劫存在し続けよう!  おまえたちと私。ともに創り出していたころの世界(≒人間との対立以前の世界)。

その中では生も死も甘美な夢。魔女は幻想とともに永遠に!

人間のいなかった世界では、人間の生も死も夢に過ぎぬ。魔女は元の世界で永遠になる!

魔女イデアのガルバディアへの協力宣言の解説

恐ろしげな衣装を身にまとい、残酷な儀式で善良な人間を呪い殺す魔女。 無慈悲な魔法で緑の野を焼き払い、暖かい故郷を凍てつかせる恐ろしい魔女。

まさに、ハインが増えすぎた人間に行った行為。

現実は優しくない。現実はまったく優しくない。

神であるハインでさえ、自分の道具にやり込められてしまうほどに、現実は優しくない。

2007年03月01日

物語の対称性

FFのスタッフは、物語の対称性にずいぶんとこだわりがあるようです。

有名なものでは、セフィロスとクラウド。スタッフが公言しています。

他にも色々ありまして…。

FF7

ノルズポル

始まりの地であり終わりの地である、ノルズポル。FF7という劇の幕開けであり、悲劇第2章の幕開けであり、第3章へとつながる。余談だが、北極を意味する英語はノースポル。しかし、英語表記ではNorth PoleではなくKnowlespole。曲解すれば、忘らるる果となる。

約束は、ニブルヘイムで。

いざという時にティファを助けるクラウドが約束したのは、ニブルヘイム。

ピンチのティファをクラウドが助けたのは、ニブルヘイム。

FF7という物語

オープニングムービーでは、星、そしてエアリスが映る。

エンディングムービーでは、星、そしてエアリスが映る。

エアリスとクラウドの物語

(FF7の)戦闘で負傷したクラウドが教会に落下してきたことが、エアリスとの物語の始まり。

(FF7ACの)戦闘で負傷したクラウドが教会に落下してきたことが、エアリスとの物語の区切り。

FF8

母の夭逝

スコールの母レインは彼を産んだ時に、リノアの母ジュリアは交通事故で、夭逝。

父の立場

スコールの父ラグナは、東の大国、エスタ大統領。

リノアの父カーウェイは、西の大国、軍国主義国家ガルバディア軍大佐。

ラグナとジュリア

共に、生死に関わる大事故に。

ファミリーネーム

スコールもリノアも、本来のファミリーネームを捨てている。

スコールとリノアの物語

オープニング間もなくガーデンで始まり、エンディングのガーデンで一区切り。

悲劇

石の家での魔女の力の継承こそが劇の幕開けであり、終わりでもある。

親子二代

ラグナの物語は、スコールの物語へと。

FF10

エボンジュ

シンによってスピラに連れられた人は、シンの消滅と共に元に戻る。 言い換えるなら、エボンジュによって創られ、エボンジュによって現実世界に引き出された夢の住人は、 エボンジュの消滅と共に覚めぬ夢へと帰ることに。

水の中のティーダ

オープニング・エンディング共に、ティーダは水の中で目覚める。

対称性といえば、恋人同士でありながら敵対する家柄に生まれた設定の某映画。某映画のヒロインの背中には、羽の模型が飾られていました。また、リノアの母ジュリアの愛称はジュリエットですね。このことを踏まえると、FF8のオープニングに挿入されているサイファーとスコールの戦闘も納得がいくというもの。

本題に戻ると、何のために対象性を重んじるのでしょう。FF8やFF10をリプレイした場合、核を知っている者へと視点が変わります。 FF8の場合はエルオーネやクレイマー視点に、FF10の場合はアーロン視点に。 つまり、両作品共にリプレイを想定して作られているということ。FF7ACでは、開発者がその事を明らかにしています。 DVDで繰り返し見るということを意識して作っています。そこが映画との違いですね。

リプレイする場合、エンディングの次にオープニングを見ることとなります。 物語の対称性がある場合、エンディングとオープニングの関係を自然と理解することに。

これこそが、ゲームの表現力であり、映画との違いの一例ではないでしょうか。 ゲームは、プレイヤーに選択権を渡すことができる。劇の中の3次元空間、そして時間軸までも。 小説は以前のシーンを読み直す事が可能ですが、テキスト以外の表現はなければ、意図的に一部分を正確に読み飛ばすことも容易ではありません。 映画は、映像も音声もあるものの、観客が以前のシーンに戻ることもできなければ、キャラクターを移動させることもできません。

ゲームの特性に注目することで、新たなものを発見できるかもしれません。

結論が妙に浮いているのは、結論を考えずに話を書いたからではありません。本当です。多分。

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